絆新たに

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本日3月11日です。
2年前の東日本大震災でお亡くなりになった方々へ心よりお悔やみ申し上げるとともに、震災からの復興を切に祈念いたします。

昨日、東京タワーに、メッセージが点灯されていました。


東京タワー

「KIZUNA ARATANI」

ジーンときました。

あの時、私は東京のオフィスビルの高層階にいました。
携帯の緊急地震速報のアラーム音があちこちで鳴って、足もとが揺れはじめました。
デスクの重たいキャビネの引き出しが、揺れに合わせて空いたり閉まったりして
まるでポルターガイスト現象でした。

私は周囲のうごきに合わせて、デスクの下にもぐり、時折小さく叫びながら震えていました。
ビルが倒壊するかと思われるような大きな横揺れに、死を予感しました。
そのとき、母の顔がまず浮かびました。

おい見ろと呼ぶ声に誘われて窓の外をみると、
目の前の高層ビルがぐにゃぐにゃと激しく左右に揺れていました。
あのビルが揺れているだけじゃなくて、うちのビルも揺れているんだ―
耐震構造というものを目の当たりにして、恐ろしくて気分が悪くなりました。

地震がおさまっても、ビルはしばらく揺れていました。
泣く人、倒れる人、家族に電話する人、テレビのニュースを見る人、
冷静にヘルメットを周囲に促す人、ツイッターに投稿する人・・・
外国人の社員の中には、打ち合わせを放ってそのまま帰国した人がいました。
日本人社員の中にも、部下の無事を確認してすぐ帰宅した部長もいました。
独り身の私はなすすべもなく、命は助かったのだということだけ噛み締めて、
ビルの防災センターの指示を待っていました。

上司から帰宅許可が出たのは5時頃だったでしょうか。
エレベータがすべて休止しているので階段をつかいました。
エントランスまで30階以上・・・狭い階段を大勢下りてくるので休憩なしのノンストップ。
膝が笑うというのをはじめて体験しました。

先輩同僚に別れを告げ、会社を出ると、そばのコンビニに長蛇の列。
JRも地下鉄も全線運休。
想像以上の非常事態に焦る気持ち。

帰宅難民の流れに乗って銀座まで歩いて出ると、歩道にまた長蛇の列。
タクシー乗り場でした。20分くらい並んだけど、いっこうに来ないタクシー。

電話はまったく繋がらない。
メールはタイムラグがありすぎて、使えない。
ホテルを取ろうとネット検索してみるも、どこも満室でカプセルホテルしか残ってない。

時間はすでに20時を回っていました。
ここでようやく、歩こうと覚悟を決めました。
どのくらいかかるかもわからず、ヒールで歩く自信もなかったので
近くのデパートでスニーカーを買うことにしました。

営業時間を過ぎていたにもかかわらず、銀座三越の靴売り場は混みあっていました。
スニーカーは安いものから売れて、残っているのはおしゃれなものか、奇抜なもの。
そんな混乱の中で
、店員さんは椅子を勧めてくれたり、休憩スペースを案内してくれたり
どんなお客にもていねいに優しく対応していました。

そんな誇り高く余裕のある態度に励まされ、勇気をもらいました。
自宅についたのは23時くらい。電車ならドアtoドアで30分の距離ですが、
歩くと2時間強といったところでした。

自宅を入ると、ガラスの花瓶が落ちて割れていました。ほかは無傷。
知り合いは皿が割れたとかテレビが落ちて壊れたとか、被害はまちまちで、
どうやら建物の向きによるらしいという話になっていました。

タクシーに乗った友達は、都心から横浜まで相乗りして12時間かかったと言っていました。
仕事で車を運転していた友達は、新橋から品川(山手線で3駅)まで6時間かかったって。
野宿したという人もいました。

それからもう2年。
あきらかに地震が増えています。

つぎは東京あたりが震源になるとも言われていますが、
もしそうなったら、高層ビルの上のほうで働いている人はみんな命がないだろうな。
耐震構造といってもどこまでもつか。

地震を思い出して、少し気分が悪くなってきました。
揺れの実感が体に残っているような気がします。
年末頃でしたか、けっこう揺れた日がありましたね。怖かったな・・・。

いつ尽きるとも知れない限りある人生、
1日1日噛みしめて歩んでいきたいと思います。
愛する人たちを大切に。

3.11によせて
ブログ管理人 ちよみるく

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